第4章 もう二度と、この家の誰の機嫌も取るものか

橘翔太の彫りの深い顔に、さっと冷気が走った。

「さっき兄さんにあれだけ無礼なことをしておいて、このまま帰るつもりか?」

「じゃあ何? 橘由樹に土下座でもさせて、頭を床に擦りつけながら見送れって言うの?」

「橘結衣!」橘翔太の顔つきがいっそう険しくなる。「これ以上、お前の勝手を見過ごすわけにはいかない」

橘結衣は眉を上げ、露骨な嫌悪を滲ませた。

「だったら、自分で目を潰せば?」

橘翔太は一瞬で眉間に皺を寄せた。

「……何だって?」

信じられない、という声だった。

目の前の橘結衣は、昨日までとはまるで別人だ。

昨日までは、顔を合わせれば「翔太兄さん」と遠慮がちに、それでも敬意を込めて呼んでいた。

それが、たった一日でここまで変わるなんて。

あまりにも尊大で、あまりにも刺々しい。

橘結衣はうんざりしたように言い返した。

「聞こえなかったの? 耳が悪いなら病院に行けば?」

橘翔太は彼女をじっと見つめた。

その顔には、芝居の気配が欠片もない。

本気で彼を疎ましく思っている。

その事実を悟った瞬間、胸の奥を鋭い棘で突かれたような感覚が走った。

苛立ちが、さらに膨れ上がる。

「橘結衣、お前は年長者への敬意がなさすぎる」

「年長者への敬意?」橘結衣はおかしそうに笑った。

「翔太さん。私に兄を敬えって言うなら、橘由樹には年上を敬って年下をいたわれって教えないの? さっきあいつが頭おかしいみたいに暴れてた時、あんたは何してたわけ?」

「橘由樹が私の水に睡眠薬を入れて、真夜中に鳳鳴山へ捨てた時、私は何扱いだったの? それに、私の部屋に死んだ鼠を放り込んだ時も、ベッドに針を仕込んだ時も、どうしてあんたは黙ってたの?」

畳みかけるような詰問に、橘翔太は手にしたフォークをぎゅっと握りしめた。

指先が白くなるほど力を込めながら、何か言い返そうとして――結局、何ひとつ言葉が出てこない。

そして最後に、橘結衣は彼を真正面から見据えた。

一言一言、歯の隙間から押し出すように。

極まりない嫌悪を込めて。

「橘翔太。あんたの善人ぶった顔、見てるだけで吐き気がする」

「……な……」

橘翔太は愕然とした顔で橘結衣を見た。

まるで見知らぬ誰かを見るように。

吐き気がする。

それが、橘結衣から自分への評価――?

ありえない。

そんなはずがない。

なのに胸がひどく詰まる。

息苦しさが、波のように押し寄せてくる。

次に我に返った時、視界に残っていたのは、淡々と階段を上がっていく少女の背中だけだった。

その場の空気が、しんと凍りつく。

橘由樹がようやく我に返ったのは、数秒後のことだった。

頭に乗った料理を乱暴に振り払い、狂った獅子のような勢いで階段へ向かおうとする。

「橘結衣! ぶっ殺してやる!」

自分の頭に料理をぶちまけるなんて。

身の程知らずにもほどがある。

「由樹兄さん、だめ……」

橘晴美がそっと彼の袖を引いた。

潤んだ瞳で見上げる姿は、まるで天使そのものだ。

「姉さんと喧嘩しないで……」

橘由樹は怒りで顔を真っ赤にした。

「喧嘩だ? あいつ、完全に俺を踏み台にしてるだろ!」

何をそんなに偉そうにしてる。

まだ自分に認められてもいないくせに、もう本性を出したのか。

「もういい」

橘翔太が深く息を吸い、冷え切った声で橘由樹を見た。

「睡眠薬に針か。お前も大したものだな」

それだけ言い残し、橘翔太は席を立った。

食事を続ける気分など、とうになくなっていた。

橘由樹はその背中を見送りながら、悔しさに拳を握りしめる。

目を赤くして、怒りをにじませながら叫んだ。

「橘結衣のやつ、告げ口しやがった!」

今までのあいつなら、黙って耐えてたのに。

「由樹兄さん、怒らないで」

橘晴美は彼の袖をきゅっと掴んだ。

「姉さんだって、わざと翔太兄さんに言ったわけじゃないよ」

「告げ口くらい、誰だってできるだろ!」橘由樹は悔しげに吐き捨てた。「父さんが帰ってきたら、絶対にあいつを叱ってもらうからな!」

それに、前までの橘結衣はちゃんと自分の言うことを聞いていた。

なのに今回は逆らった。

しかも、あんなふうに噛みついてきた。

それが妙に堪えた。

――

午後、橘結衣は部屋にこもったまま、一度も出てこなかった。

中で何をしているのか、誰にもわからない。

橘由樹は浴室で長いこと身体を洗ったが、それでも自分にこびりついた料理の匂いが取れない気がした。

全部、橘結衣のせいだ。

夜になり、橘国政と橘礼子が帰宅すると、橘由樹はすぐさま駆け寄り、昼間の一件を大げさなくらいの勢いで訴えた。

話を聞き終えた橘国政の顔色が、わずかに変わる。

「結衣が、そこまでそんな振る舞いを?」

橘結衣がこの家に引き取られたのは、この夏休みのことだ。

立ち居振る舞いや礼儀作法は確かに洗練されていなかったが、気が弱くておとなしい子だった。

性格も内向的で、いつもどこか遠慮がちだった。

そんな子が、ここまで逸脱したことをするのは、これまでの印象とどうにも噛み合わない。

「父さん、見てなかったからそんなこと言えるんだよ」橘由樹は首を突き出すようにして訴えた。「あいつ、俺のこと兄として全然敬ってない。もう信じられないくらい生意気だったんだ。女だから手を出さなかっただけだよ! 父さん、ちゃんと俺の味方してくれよ!」

橘国政は冷えた顔のまま書斎へ向かう。

「結衣を呼べ」

橘由樹は待ってましたとばかりに、すぐ橘結衣の部屋の扉を叩いた。

「橘結衣! 父さんが書斎に来いってさ!」

いかにも愉快そうに、続ける。

「どうするんだよ、今度は」

「俺にしたこと、父さんが知らないと思うなよ。絶対この家から追い出してもらうからな!」

何度もばんばん叩いたあと、ようやく扉がゆっくりと開いた。

立っていた橘結衣を見て、橘由樹は目を剥く。

昼間のすっぴんとは違っていた。

紫のリップに、濃いスモーキーメイク。

ぱさついた茶色の巻き髪。

腕いっぱいに貼られたタトゥーシール。

「うわっ」

思わず一歩のけぞったあと、すぐに怒鳴る。

「何でまたそんなブスみたいな格好してるんだよ!」

橘結衣は淡々と彼を見た。

「私の勝手でしょ」

自分でもわかっている。

こんな姿を、橘家の人間が好むはずはない。

けれど、それがどうした。

もう二度と、この家の誰かに気に入られようなんて思わない。

橘由樹は眉をしかめた。

「自覚あるか? その顔、見てるだけでキツいんだけど」

橘結衣はゆっくり書斎へ向かいながら、振り返りもせずに言った。

「それであんたの目が痛もうと、私には関係ない」

橘由樹はぽかんと立ち尽くした。

数秒遅れて我に返り、慌てて追いかける。

「橘結衣! 母さんにめちゃくちゃ叱られるの、覚悟しとけよ!」

橘結衣が書斎に入ると、真っ先に橘礼子がその姿に気づいた。

眉がきゅっと寄る。

「……何、その格好」

橘結衣がこの家に来たばかりの頃も、こんなふうに派手な化粧をしていた。

名家の令嬢らしい清楚さがないと橘礼子に嫌われ、それ以来、橘結衣は化粧をやめた。

なのに今また、あの悪い癖を拾い直している。

橘結衣は頭の上のぼさぼさしたウィッグを指先でもてあそびながら、さらりと言った。

「女の子が綺麗でいたいと思うのは普通でしょ」

橘礼子の表情が険しくなる。

「これのどこが綺麗なの。橘家の恥をさらしているだけでしょう」

その言葉に、橘結衣の唇が皮肉っぽく歪んだ。

「礼子さん。橘家の恥をさらす役目なんて、最初から私には回ってこないでしょ? 私はずっと、使用人の子どもってことになってるんだから」

「あなた……」

橘礼子は一瞬、言葉を失った。

確かに、結衣が戻ってきた日、最初にそう言い渡したのは自分だ。

余計な夢を見るな、と。

橘家は結衣の身分を外に公表しない、と。

外向きには、亡くなった使用人の娘を一時的に引き取り、生活と学業の面倒を見ている――そういうことにする、と。

もし橘結衣が本当の令嬢だと公にすれば、橘晴美が偽物の令嬢だという事実も、同時に表へ出る。

晴美は繊細だ。

そんなショックに耐えられるはずがない。

周囲の視線にも、きっと傷つく。

だから橘礼子は、結衣に言い聞かせた。

晴美から橘家の令嬢という立場を奪わないで、と。

幸い、結衣は驚くほど素直だった。

両親と一緒にいられるだけでいい、身分なんて気にしない、と言った。

晴美のことは妹として大切にするし、この立場を譲ることに異存はない、とまで。

そのうえ、橘礼子には橘礼子自身の打算もあった。

結衣は、あんな荒れた場所で育った子だ。

何もかもが不十分で、とても表舞台には立てない。

その一方で、晴美には長い年月をかけて手塩にかけてきた。

ようやく今のような令嬢らしさを身につけさせたのだ。

橘礼子の中での晴美の重みは、橘結衣など到底かなうものではなかった。

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